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ココデウェディング創業秘話

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再出発は家族孝行から

 1988年春、流通革命をめざした大手量販店での会社勤めを12年で終えた。毎日の朝帰り生活で家族に迷惑もかけていた反省からか、しばらくは貸衣装を営んでいた実家で手伝いでもしながら、子供の小さい時にゆっくり家族孝行でもしてきちんと父親の役目も果たしたいと考えてもいた。給料は半分になったが家賃も要らないし、のんびり子供の世話もしようと決心していた。家業の貸衣裳店は地方の郡部で互助会を営みながら安定していた。貸衣裳も結婚式というより売上の半分は葬儀。当時葬儀も派手だった。葬儀はおもに自宅。親戚ほとんど全員が着物を着ていた。葬儀会館ができる前の話だ。

婚礼業界の悪しき商習慣が自分を導く

仕事は忙しくあまりビジネスの将来を考える暇もなかった。新居を構えたり嫁さんの両親を温泉に招待したり子供や家族の将来設計のために働いていた。
そんな思いにさざ波を送ったのがかつての婚礼業界の悪しき商慣習だった。
「こんど後継になられるんですか?」と電話が掛かってきたのは地元の有力美容師からだった。
「こんど結婚する新婦さんを紹介したいんだけど・・・・」。その話は紹介する代わりにリベートが欲しいという今では聞かなくなったハナシ。
ていねいにお断りしたのはいうまでもないが、私がどんな人間か理解いただけるまで2、3年間はそんな電話が多かった。かつてのその種の美容師という存在は業界の障害となっていたと思う。そんな美容師自身は貸衣裳を借りるときは安くてクォリティのあるうちの店をよく使ってくれるが、お客様に紹介するときはレンタル料が高くてリベートをいただける某店へとなる。その腐った根性にある美容師の旦那さんの「おまえ!そこまでするのかよ」という反応は面白かった。美容業界の名誉のためにお断りしなくてはならないが、そんなタチの悪い美容師はほんの一握りの存在ではあるのだが。
そんなこんなで「業界の浄化より家族だ」という思いでいられたのは1年だった。レンタル衣裳と婚礼業界の改革を自ら仕掛けたいという思いや情熱を抑えるのはもともと無理だったのかもしれない。当時レンタル衣裳の配達の際には知人や親戚などに結婚式の費用の相場を興味本位で聞いて回った。なんとその頃(1990年前後)のそれは400万円から800万円だった。どこの知り合いに聞いても声を揃えた。そんな相場では当時小学低学年だった「娘の結婚式もまともに挙げてやれないな」とため息をついたものだった。

システム会社との出会いが進路を決めた!売上は7年で7倍の規模に。

そんな時にひょっこり飛び込み営業で来店したのが当時岐阜にあった「コンピュータシステム」さん。この会社との出会いがうちの方向性を決めてしまう。この会社は結婚式場の情報をお客様に提供するタッチパネル式のパーソナルコンピュータをツールに利用した「結婚式場紹介業」を勧めてくれた。何か業界を変革するツールがないかと探していた時期だったので飛びついて導入してみた。
実はその頃貸衣裳業界も折からのチャペルブームで和装(白無垢・打掛)が出なくなり特に大手のお店は大きな危機感を持っていたのでチャペルやレストラン、また写真スタジオを新設したり、従来力の入らなかった成人式や卒業式、七五三などにも業容を進展させざるを得なくなっていた。しかしうちはといえば式場新設というと本業の貸衣裳よりも投資規模も桁違いに大きくなかなか意思決定できずにいた。そこで「コンピュータシステム」の力を借りて「貸衣裳単独事業」から「貸衣裳事業プラス結婚式場紹介事業」になった。
半年ほどの準備期間を経て「結婚式場紹介業」システムも揃い、広告も投入した。その当時は人口1万人程度の小さな町での営業だったが近隣の市町村からもかなりの反応があり、レストランや会館でのウェディングの始まりとなった。レストランさんや会館さんも当時も渡りに船でどんどん送客お願いしますという感じでトントン拍子に業績は上向き、売上も毎年二桁伸長は当たり前だった。7年で7倍の売上規模に拡大した。そこで現在の人口17万人の高岡市に「レンタル+結婚式場紹介+フォト+美容+結納」の業種揃えをして
総合貸衣裳というコンセプトで新設のはこびになった。

悪徳カンパニーがうちの進路を変えた!

 20年前の高岡市はまだまだ富山県西部の商都の面影も少しは残っていた。人口1万人そこそこのところからの新設店だから無理もないが圧倒的な客数に驚いた。レンタルも式場紹介も結納までも大幅に伸びた。
そこで出くわしたのが、かつてのプロデュース会社という存在だ。結婚式場紹介で送迎させていただいたお客様が送迎先のレストランから決定せずに帰って来られるお客様が増えてきたのだ。そこで当時友好関係にあったホテルへ送迎させてもらうとホテルの方がリーズナブルだった。「レストランウェディング=リーズナブル」という方程式が使えない状態になっていたのだ。そこでお客様から見積もりを見せていただき詳細に調べてみると、なんと「悪徳プロデュース会社」がピンハネした上にプロデュース料を挙式で5万円、披露宴で10万円も取っていた事実が判明した。そんな悪徳カンパニーに県内のプロデュースを任せておいては県内でのレストランウェディングがホテルよりも高止まりしてしまうではないか!!!そんな正義感(?)から、またしても「結婚式場紹介業」から「結婚式プロデュース事業」に鞍替えだ。それも「正義は勝つ。お客様に喜んでもらいたい」の一念だ(笑)

バブル崩壊と婚礼人口の減少で一気に瀬戸際に!!

 そんな「結婚式プロデュース事業」もいいことは続かない。鞍替えのとたんに世の中のバブルより5年遅れで婚礼業界にもバブル崩壊。業界の業績が婚礼人口の減少により急激に下降を始めた。それまでの単価の下落だけでなく組数の大幅な下落がずっ~と続く。ホテルなどの既存会場ではより一層よそ者(自社テナントや協力店以外)には門戸を閉ざす。当然プロデュースの件数は下がり始めた。スタッフの数も苦肉の3人の”少数精鋭主義??”を貫くことになる。貸衣裳業者は仕入れを抑えればなんとかなるが、そんな10年で京都や東京のドレスメーカー、和装メーカーなどの主要仕入先はどんどん倒産。かつての1/3くらいの数に淘汰されてしまった。とにかくコストカットしながら時代を待つしかなかった。

 そんなどん底の時期にうちの嫁さんは大阪に一ヶ月泊まり込みでヘアーメイクの講習にいった。従来美容師さんにお願いしていたヘアーメイクと着付けを内製化するためだ。関西の親戚に泊まり込みで苦労をかけた。ウェディングドレスの洗濯も業者に出していたのを東京銀座の業者に習いにいってそれも内製化した。そのほかコストカットの手段はいろいろ尽くした。先に触れた人件費の大幅カット、外注の内製化、賃料の改定交渉、仕入先の入れ替え(安くて良いものを足で探した)、バックの蛍光灯の半減などの電気水道料の対策、乗用車の中古軽自動車化、保険の軒並みカット、そしてもちろん交際費もカット。でも広告はきれなかったなぁ。そんなこんなで10年。お店はボロボロでも細々とでもなんとか生き長らえた(笑)

オリジナルウェディングの波が良い方向に導く!!!

 世紀変りの頃に結婚式は多様化のウェーヴが起きる。世界にたったひとつのウェディングの隆盛だ。これにはホテルや神社などのかつての主流の会場は対応できない。自社施設を活かしたハード型の体質だから、外へ出て結婚式を施行というのはできない相談だった。まさに結婚式プロデュースにはオリジナルウェディングの風が吹いた。ここで会社員時代のイベント担当の経験が生きる。おとぎの森公園、古城公園、チューリップ四季彩館、海王丸パーク、砺波美術館等など。オリジナル挙式と披露宴のセットプランが驚くほど組数増加になった。
そしてある日突然背の高い一人の青年がご来店された。開口一番「お金がないんです」と率直な物言い。「40人の結婚披露宴を100万円仕切ってほしい」とのご希望だった。当時40人200万円というプランは持っていたもののそんなプランはなかった。そこで後日提案を約束した。各レストランと交渉し翌日には40人で100万円を提示。ご両家にもご出席のご友人たちにも好評だった。ウェディングプランが定着したのもちょうどその頃だ。
同じく2000年を境に婚礼人口の減少以上のスピードで地元での婚礼件数が更にがた減りした。団塊のジュニアーを始めとする女性の高学歴化が地方にも普及。「県外に進学してそのまま就職・結婚」というストーリーが定着しだした。そんな組数激減の折、既存の式場も外部の組織に集客とプロデュースの依頼する時代になった。時代は我に味方せり。既存の式場さんとも連携しながら婚礼事業は順調に推移するようになる。

リーマンショックで、さらに業界に激震!!!

 しかしいいことも長くは続かないのが世の常。2008年リーマンショックで婚礼も動きがなくなった。2009年の春先まで全く先が見えない時期だった。2008年秋から新しい事業の種をずっ~と探し求めた。そして現れた救世主。「窮すれば通ず」これも世の中の法則だ。
それが「ネットレンタル」。京都の片田舎に自社の出ない留袖をネットで出品したら爆発的に売れだした若い社長がいた。すぐ知り合いのコンサルタントに紹介してもらい、お店を見学、即実行。とりあえず楽天出店だ。ホントはネットで物が売れるはずはないとタカをくくっていたが、藁をも掴む思いとはこのこと。当時の楽天は集客力がありオープン初日から売れた。試着もしないで成人式振袖をご予約いただけるのが不思議だったが、それは時代の変化の本質だった。長らく和服を着ないうちに消費者は着物の見方がわからなくなっていたのだから試着に意味はなかったのだ。あとは商品量の投入と価格設定の問題だけだった。そして「ネットレンタル」の体制ができたあとの「フォトプラン」の隆盛が復活を決定付けた。結婚するカップルも両親も写真は必ずという思いがあるのだ。特に和装は人気だ。当たり前と言えば当たり前。日本人は大和民族なんだ。

これからは人財育成が勝負の分かれ道。富山ルネッサンス。

 2013年「年収500万円の社員を創ろう」という狙いで人事評価制度を導入。それまでの年功序列(?)の仕組みを転換。スキルのある人財を評価し賃金制度とリンクさせた。店長制度も設け人財登用によるリーダーの育成をはかり組織としての動きができるようにお店を内部から見直し始めた。いつまでもワンマン経営というわけにはいかないからだ。地方の人財は地方でしか育たないという信念のもと地元に根付いたビジネスモデルを地元の人財で創り上げていきたいと考えている。いまスタッフは生き生きと働き始めた。富山というところは素晴らしい人財の宝庫なのかもしれない。
 富山といえば2015年3月14日念願の北陸新幹線開通した。とにかく新幹線が来るとこんなにも一極集中になるということが実感できた。金沢市は平日でも日本中からとんでもなく観光客が集まる。富山市も土日を中心に観光客が集まる。でも高岡は沈んだ。一極集中の法則においていかれた。どっこい高岡は宝の山。素晴らしい遺産が眠っている。こんなに財宝が眠っている町は他にない。起こして起こして活用すべし。これからは富山と高岡の交流が大切だ。呉西だ呉東だと言っている時代ではない。富山無くして高岡なし、高岡無くして富山なしなのだ。連携して当たるべし。現状も国内での富山県のボジションは持ち家比率、世帯所得など非常に高いレベルにあるが、これからの富山県の未来は観光、産業、人財などますます明るい。

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